トラスト通信100号
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1997年:忘年会原社長/山川社長1995年12月かしいと思うこともあるったい!」「何ですか!それ!」と言い合いになって焼鳥屋から飛び出していきました。こいつらが泣いて電話してきたりしてましたね。河邉 それが多かったですね。原 辞表は、五、六回出したよね。河邉 楽しくしゃべっていると、だんだんやばいなーという雰囲気になってきて、「もういいです!」とテーブルをバン!と叩いて出ていかれるんですよ。その後、会長が僕たちに向かって「ま、飲もう」と。山川 先日の勉強会で学んだ、京セラフィロソフィ(※1)でもありましたが、値決めなどで言い合いになることがありましたね。原 近年でもありましたからね。山川 三年くらい前ですよ。原 会長と山川社長が言い合いになって、私が間に入って。大津 僕は聞こえないふりして歌ってました。河邉 次の日、私は、会長、原社長、矢羽田社長とゴルフだったんですよ。ゴルフ場から帰る途中に山川社長の車とすれ違いました。山川 前日のことをお詫びしようとゴルフ場に向かったのですが、すれ違いになってしまいました。 会長には電話でお詫びしたのですが、「何かあったっけ?酒の席のことだからあまり覚えてない」なんて言ってくださって。それまでも、会長に一生ついていこうと決めていましたが、会長の大きさに改めてその思いを強くしましたね。― 創業時に苦労したことはどういうことですか?早川 やっぱり一番は資金ですかね。山川 お金と信用ですね。当時は有限会社だったし、住所も福岡市内ではなかったので、ホテルのロビーで商談をしたりしていました。早川 事務所はガタガタしてお客さんは呼べませんでした。外階段だったし。松浦 二階の足音が聞こえてましたもんね。原 敷金が用意できず、契約を遅らせたりしていましたね。山川 その間に僕がマンションを売りに行ったりしました。あるときは、河邉取締役が入社前でしたが、午前中決済しないといけないのにお客さんの書類が足りないということがありました。河邉取締役の駐車場のバイトが終わったあと、夜中十二時くらいから一緒に鹿児島まで取りに行って、お客さんのところに着いたのは朝方4時。それなのに迷惑をかけたからと起きて待ってくださっていました。福岡に戻る車中で河邉取締役が「いい仕事ですね!」と感動していましたね。ノンストップで戻ってきて急いで決済して、何とか間に合にあいました。ホント綱渡りでしたね。 矢羽田社長は月末資金が足りなくなってくると会社に来なくなってましたもんね。矢羽田 月末の資金不足が数ヶ月続いていて、月初会議で何度そのことを伝えても、当時の専務から「俺は金のことは解らん」の一言。さすがに頭にきて月末に蒸発したこともあった。結局は、自分で始末しないといけないから蒸発しても何もならないんだけどね。― 資金面でずいぶん苦労されたようですが、いつ頃から軌道に乗り出してきたんですか?矢羽田 上場するちょっと前かな。やっぱり利益が出てからよね。その時、売上だけはとにかく三〇億円と目指していたけど、ほとんど利益は出ていなくて。利益がある程度出るようになってきた平成十六年くらいですかね。お金が回るようになってきたのは。07

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